◆ はじめに
サマセット・モームの『月と六ペンス』は、ロンドンの平凡な株式仲買人ストリックランドが、家庭も職も捨てて画家として生きる道を選ぶ物語です。若い頃には「奇人の話」「芸術家の破天荒な人生」という印象だけが記憶に残っています。
しかし、シニアになって読み返すと、常識からの逸脱、他者への無理解、創造への執念、そして“自分の人生をどう生きるか”という深い問いが胸に迫ります。私たちシニア世代の読者だからこそ味わえる、成熟した読み方をご案内します。
『月と六ペンス』とは
『月と六ペンス』は、画家ポール・ゴーギャンをモデルに、イギリスの作家サマセット・モームが1919年に発表した名作小説です。ただし、あくまで創作であり、ゴーギャンの生涯を忠実に再現した伝記ではありません。
安定した生活と家族を捨て、芸術の魔力に取り憑かれた男の強烈なエゴイズムとその生涯を描いた作品です。
物語は、平凡な生活を送っていたストリックランドが、ある日突然家族のもとを去り、画家になるためにパリへ向かうところから始まります。彼は常識や倫理を顧みず、芸術のためにあらゆるものを犠牲にしていきます。 “月(理想)を追うために、足元の六ペンス(生活)を捨てる男”の姿を通して、人生の価値とは何かを鋭く問いかける作品です。
日本でも岩波書店や光文社などから新訳が多数刊行されており、今なお色褪せることなく「生き方とは何か」を読者に突きつける必読のロングセラーです。
シニアが共感しやすいテーマ
● 常識と「自分の人生」の葛藤
若い頃はストリックランドの行動が理解しがたいものに思えました。 しかし、シニアになって読み返すと、「常識に縛られて生きてきた自分」をふと振り返る瞬間があります。
● 他者には理解されない孤独
ストリックランドは誰にも理解されず、理解されようともしません。 シニア世代には、この“孤独の質”がより深く響きます。
● 創造への執念と人生の意味
何かを極めようとする人間の姿は、年齢を重ねるほど重みを増します。「自分は何を残せるのか」という問いが迫ってきます。
● 人生後半に訪れる価値観の転換
ストリックランドの生き方は極端ですが、「人生の後半で価値観が変わる」 という経験は、多くのシニアが共感できるテーマです。
読み進めるためのコツ
● ストリックランドを“善悪”で判断しない
ストリックランドは倫理的には問題だらけですが、モームは彼を断罪していません。 “理解不能な人間”として描くことが作品の核心です。
● 語り手の視点に注目
語り手はストリックランドを観察し、理解しようとしますが、最後まで理解できません。 この“距離感”が作品の味わいです。
● ゴーギャンの伝記と一線を画す
モデルはゴーギャンですが、モームは創作として描いています。 史実と混同しないことが正確な読み方です。
● タヒチ編は“人生の最終章”
タヒチでの生活は、ストリックランドの価値観が極限まで研ぎ澄まされた姿です。 ここに作品のクライマックスがあります。
代表的なエピソード
● 主人公が家族を捨ててパリへ
平凡な家庭人だった主人公・ストリックランドが突然姿を消し、画家になるためにパリへ向かう場面は、物語の衝撃的な出発点です。
● パリでの極貧生活
ストリックランドは貧困の中でも絵を描き続けます。 常識や生活を完全に捨てた姿が印象的です。
● ストローヴ夫妻との関係
ストリックランドはストローヴ夫妻の善意を踏みにじり、妻ブランチを破滅させます。 この場面は、彼の“非情さ”と“創造への執念”を象徴します。
● タヒチでの新たな生活
タヒチでの生活は、ストリックランドが最も自由に創作できた時期です。 彼の芸術観が極限まで純化されます。
● 遺作の壁画
ストリックランドの死後、彼の描いた壁画が焼き払われる場面は、 “芸術の永遠性と人間の儚さ” を象徴する名場面です。
◆ おわりに
『月と六ペンス』は、若い頃には「奇人の物語」と映るかもしれません。 しかし、シニア世代にとっては、常識、人生の意味、孤独、創造、価値観の転換といった深いテーマが胸に迫る作品です。
ロンドンで株式仲買人として成功し、何不自由ない暮らしを送っていた40歳の男ストリックランド。 彼はある日突然、家族も仕事もすべて捨ててパリへ出奔します。「絵を描かずにはいられない」という内なる衝動だけに突き動かされ、極貧の生活の中でただひたすら自らの芸術を追い求めていきます。
社会的な常識を無視し、狂気にも似た情熱のままに生きるその姿を、語り手である「私(作家)」はシニカルで冷静な視点から描き出します。 周囲の人々を不幸にしても一切意に介さず、ただ自分の内なるヴィジョンをキャンバスに叩きつける主人公の姿は、長く議論を呼んできました。
ストリックランドの極端な生き方は、私たちに 「では、自分はどう生きるのか」 という問いを静かに投げかけます。
成熟した読者にこそふさわしい、味わい深い一冊です。